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苦手な上司への対処法

苦手な上司がいる。直属の上司だ。

 

わたしがポンコツなのは認める。

人より仕事に時間がかかるし、一回やったミスを訂正しないまま検証物をあげることもある。

 

同期のみんなが取った資格も、わたしは取れていない。

 

でもだからといって同期に対する態度とわたしへの態度があまりにも違いすぎる。

「あのさ、これ取ってきてってメールしたよね」はまだしも、どこにあるか、どう渡すかに関して質問しようとしたら「いや、メール見ればわかるから(笑)」と謎の嘲笑を受け、しかもメールは30秒前に送信されてるやん取ってきてないわたしが悪いみたいな言い方したな?

 

とにかくちょっと偉めの直属の上司に新卒のわたしはそんな風に扱われることで、あ〜、わたしこの会社に必要とされてないんだなを蓄積している。

そして毎日嫌な気持ちになって泣いている。

 

しかし、禅の教えに従って心を現在に向けて懸命に靴磨きをしていて、気づいた。

 

いやわたしが会社に必要とされていないんじゃなくて、わたしの人生にあの上司が必要ないだけだ。

わたしの人生にはわたしを評価してくれる人しかいらないし、なんなら評価なんてしないで一緒に生きてくれる家族や彼氏、友達しかいらない。だからわたしのことを必要としない上司に嫌な感情を持つのが勿体無いし、そんな時間はクソ。

そんな時間があったら大切な人たちと過ごすべきだし、大切な人たちとの時間をもっと取るためにいまできることをするべきだ。

 

つまり上司はわたしにお前なんかいらないぞという態度を取ることで、結果的に仕事のできないわたしを自主退職に追い込めそうになって楽しいかもしれないが、わたしの人生にそんな上司はいらないので真顔でいるだけでいい。

 

わたしのことを大切にしてくれる人のために生きて、わたしのことを大切にしよう。

マネージャーはとてもいい人なのに、それより上の人が悪い人って、つまり何?

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たくさんの選択肢がある消費社会と、人間が幸福を感じるメカニズムは相性が悪い。限定された条件の下で、自分で選択した事柄に対して人間は幸福を覚える。

 

実際、高校でデザイン科を選んだのは、「満員電車に乗りたくないし、世界史と日本史と物理と生物の授業を続けて受けるなんて耐えられない」という理由だった。自転車で通える距離にある、普通科以外の学科で、女子でも入れるのがその高校のデザイン科しかなかったのだけれど、人生の中でも有用で、非常に幸福な時間だった。

一方で、就職活動は最低だった。選択肢が多すぎた。大学3年生の私に、これから定年まで何がしたいかなんてさっぱりわからなかった。キャリアセンターもエージェントも答えを教えてくれないし、周囲は「大学生の就活なんてそんなもん」と慰めるだけ。結局、面倒になって、人手不足で就活が楽そうなIT系の中で、リクナビを通してスカウトが来た会社を適当に受けて就職した。

何も最初から適当に選んでやろうと思っていたわけではない。

でも、高校の就活に比べて、大学の就活はあまりに選択肢が多く、あまりに自由で、最悪だった。あまり知らない会社をとりあえずキャリアセンターや就活サイトで見繕って、差異のない説明会に交通費と時間をかけて参加し、指定の履歴書を購入し手書きで思ってもないことを書き込む。最終面接まで何度も足を運び、この話するの何回目かな~とか思いながら、着たくもないスーツと歩きにくいパンプスを身に着けて、面接を受ける。

本当にクソだと思った。早く終わらせたくて適当に選ぶから、新卒の離職率は高いんではないだろうか?

私もできることなら、資格取得と年次だけで昇進が決まるような、一人一人の仕事を見てくれないような会社ではないところに転職したい次第。

 

ともかく、消費社会の中で持続的な幸福感を得るのは難しい。

 

最近、幸福とは何かと思うとき、幸福とは自分の物差しを持つことだと考えるようになった。誰かにとっては洋服や化粧品にコストをかけることが幸福だけれど、私にとっては違うらしい。誰かにとっては子どもを3人以上産むことが幸福だけれど、私にとっては違うらしい。他人の幸福を自分の物差しで測る事で、自分のサイズに合った幸福を知ることができる。

そして最近私が測れない幸福が、働き方や稼ぎ方といった類の幸福の在り方だ。

会社員は確かに、無根拠ではあるけれど守られているというような感覚がある(実際そんなことはないにしても)。毎日出勤していれば、まあ時給に換算するとひどいくらいの給料と、勤務時間外で社内資格のために勉強している時間に対する手当だとしても文句を言いたくなるようなボーナスが出る。

代わりに、家族とは暮らせないし、大好きな地元にもいられない。自由な時間や、好きなことを考える時間は減った。

いろいろなしがらみから解放された友達を羨ましく思う時間も増えた。

結局ないものねだりなのかもしれない。

愛がなんだ

という映画を見た。

 

愛がなんだ

愛がなんだ

  • 発売日: 2019/09/27
  • メディア: Prime Video
 

 

この間は生きてるだけで、愛。という映画を見た。「愛」とタイトルにつく映画を選びがちなのか、最近の邦画はタイトルで愛を語るのがトレンドなのかはわからない。

 

生きてるだけで、愛。

生きてるだけで、愛。

  • 発売日: 2019/05/10
  • メディア: Prime Video
 

双方ともとりあえず、評価が高いから見てみたのだけれど、エモすぎて私には理解できなかった。

 

テルちゃんは田中守が好きで、都合のいい女で、田中守のために仕事を辞めて、お嫁さんになろうとする。でも田中守は意味の分からない年上の女が好きで、テルちゃんの気持ちは一方的。

でもテルちゃんを見てると愛がなんだ、って思えた。人の肌であっためられた布団ほど、この世に気持ちいいものはないし、好きな人との受精を目的としないセックスほど、絶望的なのに幸福なこともない。愛があるかとかないかとか、付き合ってるとか付き合ってないとか、正しいとか正しくないとか、周りに良く思われるとか思われないとか、そういうのどうでもいいと思った。

女の子はその一瞬のために生きてる。

 

友達がマッチングアプリで知り合った男のセフレになった。高いホテルに泊まって昼間に一緒に過ごして、長時間電話して、でも付き合ってくれないらしい。

付き合うって一言だけど、それが足りないと女の子はこんなに苦しむ。

そして女の子はあっという間に恋に落ちちゃうし、わかってるよって言葉で言ってもなにもわかってないから、すぐホテルについていく。出張で忙しくたって付き合おうって言えるでしょと、外野は思うけれど、そんなことはどうでもいい。

嘘でもほんとになる。信じてた方が幸せだから。

 

私は基本情報技術者試験に全然受からないし、残業も終わらないし、COBOL以外の言語もやりたい。

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別に大したこともないくせに毎回毎回死ぬほど悩んでてバカみたいだけど、こういうのが青春とか恋愛とかいうものの一連の流れなのだろうか。ところで心の距離が遠い人がいて、自分に余裕がある場合は、尊敬の念をもって相手のことを面と向かって称賛することが出来、その人の話にも関心のある風で相槌を打つことが出来るのに、いざ心の距離がねじ曲がった道のりの上でとても近く(別の言い方をすれば依存のようなかたちで)、心の持ちようのせいか、本当に相手が尊敬に値しないのかどちらかで、上手に相手の性格や信条に尊敬や同調をできずにい、面と向かわずともお世辞さえ出てこないということがよくある。デール・カーネギーの『人を動かす』からすればさっぱり身近な人を動かす気がないように見え、しかし身近な人こそ自分の心理状態に密接に関わっているのだから、本当に大切にすべきは後者への褒誉と心からの関心のはずだ。果たして本当に相手が尊敬に値しない人間なのであればそばにいてもらう必要もないはずで、それを見極めるのもまた、依存というゆがんだ様相を見せてしまっている関係そのものを抜本的に改革すべきだし、そのためには自分の執着心とか独占欲とか不安とかそういう弱い部分を変えていかなくてはいけない。というわけで、弱い部分を変革すべく、禅とかの本を読み始めた。基本的に仏教とわたしは至極相性がいい。ただ、それを実践できているかというと、実践できていれば煩悩から発するあらゆる苦悩というものに、苦しめられたりしないはずなのだ。一瞬一瞬に心を置かなければならないはずなのに、一瞬一瞬、どこか遠い異次元の世界のことを考え、人生そのものを21年間損ない続けているのがわたしなのだ。

人の話に興味がないというか、人の幸せな話に興味がないのだろう。本当に興味深く話ができる人というのは、ただ幸せな話をするのではなく、そこにユーモアや自分の弱さや失敗を織り込み、相手を楽しませようとするエンターテイメント性を有している。先日キャバクラで働いている友達に会った。彼女のSNSはまさにキャバクラで働いている女子大学生そのものなのに、実際会ってみるととても話が面白い。それはただ幸せで楽をして稼いでいる、という話をするのではなくて、いかに自分が恋愛で失敗をしているか、就職活動に乗り遅れているか、を話しつつも、資格取得に打ち込んだり、キャバクラで働くことの負の側面を見せたり、そういう尊敬できる部分を二割くらいで織り交ぜてくるからだ。そういう人は面白い。反対に面白くない幸せな話をする人というのは、そこに行きつくまでの苦労の話とか、どうしてそうするに至ったか、みたいに、不随する部分まで死ぬほど面白くない。自分の弱い部分を見せられないということは、こちらにも話に踏み込めない微妙な壁を感じさせ、気が散る。果たしてこの人は何を言いたいのだろう、というもやもやが残り、最終的に楽しかったとか幸せだったとか、そういう自慢をされたような感じが残るのだ。

ただ、だからといって前者のタイプというのは、とても身近な存在には多くない。逆に言えば、距離があるからこそ弱さや失敗を面白く言えるのであって、これが親とか兄弟みたいに、ごく近い存在になればなるほど自尊心とかが邪魔をして言えなくなる。だからこそ後者に対してこちらが興味や関心を持ち、適切な距離をとれるようにコントロールしていかなければいけない。そこで今日から一か月間、誰でも褒める期間にしようと思う。死ぬほどつまらない幸福話にも、にこにこ笑って、楽しく穏やかにいられる方が確実に人生にとっては好影響なのだ。えてしてわたしは僻みやすく、人の幸せに興味ないレベルがきっと人よりも高い。幸せそうなカップルを見るとなぜか舌打ちしたくなるタイプの性格がゆがんだ人間なので、まあ最初はきっと苦戦するに違いない。成功させるためには依存心をなくし、適切な距離を人ととり続け、すぐには話に反応せずに、例えば尊敬している別の人にこれを言われたらわたしはどうするのだろうということを一歩引いて考えてみようと思う。

低気圧でとても気分が悪いし眠い。

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 何年も果てのない劣等感と付き合い続けて来ているけれど、どうしても向き合うことができない。いろんなネガティブな感情の裏側に、どんなに頑張っても何者にもなれないのではないかという恐怖がある。一方では何もしない、何にも興味を持たない風にもいられないし、一方では全く能力というものを持ち得ていない。こんな風にどうにもできないという無力を感じて、誰よりも劣っているという感覚にとらわれたときに、真っ先に縋る先として思い浮かんだのは信仰だった。誰よりも祈ることや誰よりも信じることによって確実に救われるというのなら、確かに信仰はゆがんだ資本主義社会の中で最も狂気を孕んだかたちで現れるだろう。社会の行き詰まりの中で、自分にはなんの使命も、能力もなく、終わりが見えないとすれば、何かに縋るより他に何ができるんだろう。競争があって、自分の能力が評価されて、他人にとって対価を払うべきかどうか査定されて、いろんな場所でずっと行われて来たことが、どんどん向かうべき場所を失っていく。物も価値をなくして、人も居場所をなくして、全部が飽和して、わたしはこんな世の中で子供を産んだり結婚したり一軒家を建てたりする希望や意義を見失っている。

0908

心がすかすかする。自己肯定感の低い女の子が苦手だ。香川県は直島に行ってきた。少雨の地域らしい瀬戸内に三日間滞在して、ほとんど雨に降られてしまった。でも、海のない地域に普段住んでいるからか、非日常感がすごかった。ベネッセハウスに宿泊して、大学生の夏休みにしてはとても贅沢な思いをしてしまった。直島でしか体感できない空間がたくさんあって、次は晴れた日に行きたいと思った。

7/1

 つまらないことばっかり考えるようになったな、と思う。恋愛をして、脳味噌が溶けて、バカになって、どうでもいいいことだけ考えてればよくなって、死にたくても一瞬でそんな気持ちなくなっちゃうようになった。生きるのが苦しくてどうやって死のっかなあと毎日毎日考えながら、起きる度に朝また目覚めてしまったことに絶望しながら、時計の針の進む音に苛々して仕方なかったのに、いまはそんな気持ちどこかに消えてしまって、すごく退屈だ。これからずっとこうなのかと思う。他人の欲望を満たすために発されたいろんな言葉に反応するのかと思う。他人を動揺させるためにうまれたいろんなことに惑わされるのかと思う。消費させるために消耗させられるのかと思う。ほんと素直にクソみたいだ。飲み込まれて飲み込まれて仕方ない。いまは生理前だからこんな厭世的な気持ちでいるけど、これで妊娠とかしたら子供がいて幸せみたいになるのだ。ホルモンのせいだ。生きるのがこんなに苦しくて辛いのにホルモンのせいで他人にこの苦しみを背負わすことに喜びさえ感じて自分が生きる意味を見出してしまう。自分の自己肯定感を満たしたくてわたしの人生に介入してくるなら迷惑だからやめてくれと思うが、わたしだってそうなんだろう。わたしだって何してるんだろう死のうかなと思いながらぼんやり生きてる。何してるんだろうと思いながら他人に必要とされてると思って喜んでそのうちそれだけじゃ物足りなくなるのだ。何もいらないかな。いつかいらなくなるなら最初からいらないでいいんだけどな