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  店長に面談の時、1日を振り返る時間を持つために日記を書けと言われたのと、読んでいる本にいかに1日の振り返りが大事か書かれていたので書き始める。多分十中八九続かない。ただ人に見られることを意識しない文章を書くのはそんなに苦痛ではない。

 最近苛々してしまうので感情を管理するためにも日記をつける。今日はとても寒かったので15時ごろに駅まで迎えに来てもらおうと思ったのだけれど、母は既に飲酒をしているとのことで、来てもらえなかった。寒い中30分歩くうちにどうでもよくなって来たけれど、今冬の中でも随一寒い日に昼から飲酒をして来られないとはなんぞ、それも不倫中の男と……、と思うとやるせない気持ちになった。まあ迎えに来てもらおうという期待が甘かったのかもしれない。

 テスト期間で明日は休日なのですが、彼氏が仕事が休みらしく、メッセンジャー上でただ休みだよという報告のし合いになったのも世にも不思議な光景だった。どちらかが誘えばいいのだと思うのだけど、特段行きたいところも浮かばず、だからといって提案してもらえるわけでもないので、毎回、あ、別に提案する程会いたいわけでもないのね、と思う。別に会いたいと思え!!と強要出来るわけでもないけれども、10日くらい会っていないのに別に提案するほど会いたいわけでもないっていうのはヤバイと思う。お金ない、車ない、行きたい場所ない、寒いの嫌状態で、でも会いたいとは思われたい!というのはわたしのわがままなので、これもわたしの期待が甘いです。

 友達に借りていたCDを忘れて、遊ぶ程親しくもないので春学期まで返せないのは反省している。以前一度持っていったのに彼が学校に来なかったことは怒っている。

 行きは駅まで送ってもらえたし、わがままを言ってもとりあえず返信は来るし、おばあちゃんがみかんをくれたし、ちょうどみかん食べたかったし、アニメをたくさん観られた。幸せのコアが人の役に立つことなのはわかる。ただ人の役に立つまでに腰を上げるのも、都合良く利用されるのも嫌だ。この二つから手を離すことができればとてもいいと思う。例えばわたしはさきちゃんのことは好きだけれどさきちゃんのことが好きな男の子たちが嫌いだ。わたしは邪険にされているような気がするし、隙あらばさきちゃんの連絡先教えて!さきちゃんも交えて遊ぼうよ!となるからだ。わたしはそういう風に自分のことを無視されて利用されるのが嫌いだし、自分の卑屈な面があるので尚更嫌だ。

  アダルトビデオの普及が少子化を進ませているという記事が面白かったです。これから自分がどうして行きたいか考えるヒントだと思った。女の子は商品だと考える人がいる。フェミニストは怒るけど、一方で自分を商品にする女の子たちがいて、消費されていく女の子たちをそばで見ながら、わたしも消費されているのかもしれないと思い、その消費されているのかもしれないという意識が既に商品的な思考なんだと思う。一時間12000円で消費される女の子がいるし、無料で消費される女の子もいるし、もらったお金をそのまま男の人にあげる女の子もいる。それは生き方だけど、社会の作り方でもある。女の子が商品になれるということは、女の子そのものに価値があるということだ。貧困女子の新書で読んだけれど、商品にさえなれない女の子がいる。ネットの普及で色々な人たちに対して市場が開いていく。ちょうど図書館のせいで本が売れなくなるみたいに、女の子そのものにこだわる人もいるけれど、バーチャル的で、手間のかからない方が普及するのは当然のことだ。同列で考えたからよくわからなくなったけど、つまり、女の子が得たいものの為に必死になればなるほど、商品としての自分が市場に拡大して行って、少子化が進むのって、すごく面白い人間の文化の進み方だなあと思った上で、これからそんな社会で、アダルトビデオのせいで少子化が進みセックスレスが進む中で、家庭を持つという選択をするリスクについて、考えるようになった。将来を不安に感じることや、起こってもないことを想像するのを馬鹿にする人がいるけれど、あらゆるリスクを想像して自分の未来を選択したり創造したりできるのは動物的で重要な能力だと思う。もちろん無意識に対して意識が何も作用できないとしても。

  三日間くらいは続けばいいな!