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 月曜日、浦和までたかが世界の終わりにを観に行った。苛々させるような演技に苛々して、愛されたいってどんだけ苦しいんだよと思う。愛されたいっていうのがどれだけ苦しくて、愛するだけで幸せだと思えるのにどれだけ自分のことを認めてあげないといけないのか考える羽目になった。いつかこんなことを考えなくて済むくらいに大人になれるのかと思っていたけど、映画に出て来る人たちはみんないい大人だったので、自分と向き合って肯定するのに必要なのは時間じゃないんだと思った。

 友達に会わない日が続いて、自分にとってそれが楽なのか苦痛なのかよくわからないでいる。と言っても一週間程度なのだけど、ほんの2年前くらいまではこんな長い休日のうち一週間も1人で過ごすなんて孤独で耐えられなかったと思う。恋人がいるからなのか、恋人とつながる上で対人関係について学んだ結果なのか、たぶんその両方だと思う。吉田修一のさよなら渓谷をやっと読んだ。小学生の時いつも一緒に図書館に通っていた友達に面白いよとしきりに薦められていたけれど、その時は、まあ今もそういうところはある、人に薦められた本なんてどうせ〜〜みたいに思っていて読んでいなかった。吉田修一の作品の中で唯一なんとなく読んでいなかったけれど、不意なきっかけで読んで、やっぱりわたしは女なんだな、と思う。たまにこういう作品に関わると、なんとなく自分が女であることを惨めに感じる。だからといって男になりたいわけではないけれど、性別が違う限り性差があるということをまざまざ見せつけられると、残酷な気分になる。というのは、昼に見た世紀の映像のユーゴ戦争で軍人にレイプされて妊娠した女の人の手記が流れたせいもある。力が弱かったり体が細かったり妊娠できたりすることから生まれるひどいことに対してできることが何もないことが自分の無力さを思い出させる気がする。こと自分の生育環境においてそれが顕著だった。さよなら渓谷はかなえが俊介を愛せてある意味で解決したけれど、現実には絶対あり得ないからエンターテイメントになるわけで、その差に絶望して終わった。