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別に大したこともないくせに毎回毎回死ぬほど悩んでてバカみたいだけど、こういうのが青春とか恋愛とかいうものの一連の流れなのだろうか。ところで心の距離が遠い人がいて、自分に余裕がある場合は、尊敬の念をもって相手のことを面と向かって称賛することが出来、その人の話にも関心のある風で相槌を打つことが出来るのに、いざ心の距離がねじ曲がった道のりの上でとても近く(別の言い方をすれば依存のようなかたちで)、心の持ちようのせいか、本当に相手が尊敬に値しないのかどちらかで、上手に相手の性格や信条に尊敬や同調をできずにい、面と向かわずともお世辞さえ出てこないということがよくある。デール・カーネギーの『人を動かす』からすればさっぱり身近な人を動かす気がないように見え、しかし身近な人こそ自分の心理状態に密接に関わっているのだから、本当に大切にすべきは後者への褒誉と心からの関心のはずだ。果たして本当に相手が尊敬に値しない人間なのであればそばにいてもらう必要もないはずで、それを見極めるのもまた、依存というゆがんだ様相を見せてしまっている関係そのものを抜本的に改革すべきだし、そのためには自分の執着心とか独占欲とか不安とかそういう弱い部分を変えていかなくてはいけない。というわけで、弱い部分を変革すべく、禅とかの本を読み始めた。基本的に仏教とわたしは至極相性がいい。ただ、それを実践できているかというと、実践できていれば煩悩から発するあらゆる苦悩というものに、苦しめられたりしないはずなのだ。一瞬一瞬に心を置かなければならないはずなのに、一瞬一瞬、どこか遠い異次元の世界のことを考え、人生そのものを21年間損ない続けているのがわたしなのだ。

人の話に興味がないというか、人の幸せな話に興味がないのだろう。本当に興味深く話ができる人というのは、ただ幸せな話をするのではなく、そこにユーモアや自分の弱さや失敗を織り込み、相手を楽しませようとするエンターテイメント性を有している。先日キャバクラで働いている友達に会った。彼女のSNSはまさにキャバクラで働いている女子大学生そのものなのに、実際会ってみるととても話が面白い。それはただ幸せで楽をして稼いでいる、という話をするのではなくて、いかに自分が恋愛で失敗をしているか、就職活動に乗り遅れているか、を話しつつも、資格取得に打ち込んだり、キャバクラで働くことの負の側面を見せたり、そういう尊敬できる部分を二割くらいで織り交ぜてくるからだ。そういう人は面白い。反対に面白くない幸せな話をする人というのは、そこに行きつくまでの苦労の話とか、どうしてそうするに至ったか、みたいに、不随する部分まで死ぬほど面白くない。自分の弱い部分を見せられないということは、こちらにも話に踏み込めない微妙な壁を感じさせ、気が散る。果たしてこの人は何を言いたいのだろう、というもやもやが残り、最終的に楽しかったとか幸せだったとか、そういう自慢をされたような感じが残るのだ。

ただ、だからといって前者のタイプというのは、とても身近な存在には多くない。逆に言えば、距離があるからこそ弱さや失敗を面白く言えるのであって、これが親とか兄弟みたいに、ごく近い存在になればなるほど自尊心とかが邪魔をして言えなくなる。だからこそ後者に対してこちらが興味や関心を持ち、適切な距離をとれるようにコントロールしていかなければいけない。そこで今日から一か月間、誰でも褒める期間にしようと思う。死ぬほどつまらない幸福話にも、にこにこ笑って、楽しく穏やかにいられる方が確実に人生にとっては好影響なのだ。えてしてわたしは僻みやすく、人の幸せに興味ないレベルがきっと人よりも高い。幸せそうなカップルを見るとなぜか舌打ちしたくなるタイプの性格がゆがんだ人間なので、まあ最初はきっと苦戦するに違いない。成功させるためには依存心をなくし、適切な距離を人ととり続け、すぐには話に反応せずに、例えば尊敬している別の人にこれを言われたらわたしはどうするのだろうということを一歩引いて考えてみようと思う。

低気圧でとても気分が悪いし眠い。